私の“ターニングポイント”:福住仁嶺編 | ARTA

2022.9.7

2022.9.7

私の“ターニングポイント”:福住仁嶺編

ARTAで戦う者たち−−。彼らは人生のある時にレースの世界で生きていくことを志し、喜びや悲しみ、悔しさなど、数え切れないほどの感情を経験して、この国内最高峰SUPER GTという舞台にたどり着いた。

 そんな彼らのキャリアには、転換点“ターニングポイント”となった出来事が存在する。あの時の、あの出来事がなければ、自分はこの世界に飛び込んでいなかった、もしくはここまで登りつめることはできなかった……そういった経験が誰しもあるはずだ。今回は8号車ARTA NSX-GTの福住仁嶺に、自身のターニングポイントについて聞いた。

 スーパーGTのGT500クラスで通算4勝、スーパーフォーミュラでも2勝を挙げるなど、今や日本を代表するトップドライバーのひとりとなった25歳の福住。10代の頃はレーシングカートで数々のタイトルを手にした後、鈴鹿サーキットレーシングスクール(現ホンダレーシングスクール鈴鹿)のフォーミュラ部門(SRS-F)でスカラシップを獲得し、ホンダのサポートを得てヨーロッパで武者修行するという、ある意味“王道”ともとれるルートを歩んできた。

 そんな福住がトップドライバーとしての階段を駆け上がっていく上で、大きな分岐点となったのが9年前の2013年。SRS-Fを受講しながら、全日本カート選手権で当時の最高峰クラス、KF1クラスに参戦していた年だったという。

「全日本カートではダンロップさんに金銭面などのサポートをしてもらいながら戦っていて、『ここでチャンピオンを獲れなかったら終わり』と言われていた時でした。スクール(SRS-F)で落ちても終わりという状況だったので、その時は精神的にも非常に辛かったです」

 カートの最高峰の舞台で戦いながら、オーディション形式のSRS-Fを受講することの過酷さは想像に難くない。カートのレースに出場するため、地元の徳島から父の運転するハイエースで遠征する日々。そんな中でSRS-Fでは自分の思うようにマシンを走らせることができず、かといってフォーミュラカーの練習ができるような環境も余裕もなかった。

 しかし、福住はそんな逆境を乗り越えて全日本カートでチャンピオンを獲得、終盤まで苦しんでいたSRS-Fでも土壇場で速さを掴んで次席となり、スカラシップを手にした。翌2014年からはHFDP(ホンダ・フォーミュラ・ドリーム・プロジェクト)のサポートでF4に参戦し、その後の活躍は前述の通りだ。

 福住にとって2013年がまさにターニングポイントとなった訳だが、実はその前にもレース人生の分かれ目となるような時期があった。

「どういう言い方をすればいいか難しいですが……中学生くらいの頃、レースに対してやる気がなくなるというか、辞めたくなる時期がありました。それまで結果を出せていないことはなかったんですけどね」

 多感な時期に、自らの将来について思い悩んだ福住。彼が最終的に“覚悟”を決めるきっかけとなったのは、家族やスポンサーといった周囲からの支えであった。

「色々な方に助けてもらったからこそ、結果を残さないといけない。応援してくださる皆さんのためにも、この世界でちゃんと生きていかないといけないと思うようになりました」

「自分がこの世界でやっていくと覚悟を決めたからこそ、余計にプレッシャーを感じるようになりましたが、周りの皆さんの力をもらいながら、良いプレッシャーに変えながらここまでやってこれたのだと思います」

 2013年にカートやSRS-Fで結果を残せていなければ、今はレースには一切関わっていないだろうと語る福住。彼の人生を大きく動かしたのは彼自身の才能や努力であることは言うまでもないが、その“覚悟”も大きな原動力となったことは間違いないだろう。

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