私の“ターニングポイント”:野尻智紀編 | ARTA

2022.6.15

2022.6.15

私の“ターニングポイント”:野尻智紀編

 ARTAで戦う者たち−−。彼らはある時レースの世界を志し、喜びや悲しみ、悔しさなど、数え切れないほどの感情を経験して、この国内最高峰SUPER GTという舞台にたどり着いた。

 そんな彼らのキャリアには、転換点“ターニングポイント”となった出来事が存在する。あの時の、あの出来事がなければ、自分はこの世界に飛び込んでいなかった。もしくは、あの出来事がなければ、自分はここまで登りつめることはできなかった……そういった経験が誰しもあるはずだ。今回は8号車ARTA NSX-GTの野尻智紀に自身のターニングポイントについて聞いた。

 他のレーシングドライバーと同じく、野尻は幼少期からカートを始め、結果を残していった。本人曰く「上位にはいましたが、同世代で絶対的に速い存在ではありませんでした」と言うが、そんな彼が一躍注目を浴びた出来事がある。それが2000年にツインリンクもてぎ(現モビリティリゾートもてぎ)の北ショートコースで行われたARTAジュニアカートサマースクールだ。

 ARTAジュニアカートサマースクールはその名の通り、ARTAが開催する子供向けのカートスクールであり、夏休み期間の恒例イベントでもあった。そこでは2日間にかけて模擬レースが10回行われ、ARTAの講師陣による貴重なアドバイスが受けられた。

 そこに初めて参加した野尻は、当時小学5年生。同じくイベントに参加していた5歳近く年長の中学生カーター達は、かなりの“お兄さん”に見えたはずだ。

 それでも野尻は、模擬レースを前にしたタイムトライアルで2番手タイムを記録。模擬レースでも上位を走ってみせた。「レンタルしたカートのエンジンの調子がたまたま良かったんです。今まで乗ったこともないような速さでした」と語る野尻だが、このパフォーマンスが講師陣の目に留まり、翌年からオートバックスによるサポートを受ける運びとなった。

 2006年に全日本カート選手権でチャンピオンに輝き、その後欧州でカート修行。そして4輪カテゴリーに転向し、ジュニアカテゴリーをステップアップしていく野尻のレーシングスーツやヘルメット、車両には、常にオートバックスのロゴがあった。そしてSUPER GTのデビュー戦(2013年第5戦鈴鹿)もARTAからの参戦。そして今もARTAの一員として戦っている。野尻とARTA、野尻とオートバックスの付き合いは実に20年にも及ぶ。

 だからこそ野尻は、自身のレース人生の最初のターニングポイントは2000年のARTAジュニアカートサマースクールだと考えている。それまではただただ「楽しい」という思いの下で続けていたカート。プロになりたいという思いも特に強くはなく、サマースクールを経てオートバックスのサポートを手にした当初も「あまり深くは考えていなかった」というが、徐々に心境の変化が訪れる。

「オートバックスさんは若手育成に力を入れていたので、オレンジ色のカラーリングのカートに乗ることは、当時の子供達の憧れでした」

「伊沢(拓也)選手、塚越(広大)選手、山本(尚貴)選手と、ARTAの先輩方が代々いて、彼らは順番にステップアップしていきました。そんな先輩方の背中が、近付いたとまではいかなくとも、視界に映るようになりました。そのあたりから、もっと上のカテゴリーで戦ってみたいと少しずつ思うようになっていきました」

 自らのレースキャリアを長きに渡ってサポートしてくれているARTAへの最大の“恩返し”は、何と言ってもSUPER GTでのチャンピオン獲得だろう。昨年は福住仁嶺と共に2勝を挙げ、チャンピオンから4ポイント差のランキング2位。まさにあと一歩のところまで迫った。

「長い間お世話になってきているし、そういう意味ではチャンピオンだけでは足りないのかもしれませんが、チャンピオンを獲らないと次のステップにはいけません。まずはそこが今見える範囲での、一番大きなターゲットのひとつです」

「それでようやく一人前かなと。でないと、これまでの活動の意味がなくなっちゃうので」

文/戎井健一郎(motorsport.com)

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