A BRIGHT FUTURE AHEAD「難局に見えた光明」
いよいよ2020年シーズンのチャンピオン争いが佳境を迎えようかという第7戦ツインリンクもてぎ戦の1週間前に、衝撃の報せが飛び込んで来た。GT300クラスを戦う55号車ARTA NSX GT3をドライブする高木真一がスーパー耐久のレースで負傷し、治療に専念するため今季のレース出場が出来ない事態に直面することとなってしまった。
この状況に鈴木亜久里総監督は、かねてからARTAがサポートしてきたドライバーであり、亜久里監督自身がヨーロッパ挑戦をアドバイザーとして見守ってきた松下信治を起用すべく打診し、急きょ代役出場させることが決まった。
ツーリングカーのレースは初めてという松下にはルーキーテストが課されたが、松下は土曜朝の走行でこれを難なくこなしてすぐにチームへと馴染んで見せた。これにはエグゼクティブアドバイザーの土屋圭市もエンジニアの岡島慎太郎も驚いた。
松下「聞こえる? 1、2」
岡島「聞こえるよ」
土屋「ノブはまず、1400kgとABSに慣れること。左からクルマが来てるよ!」
松下「見えてます。ターン1、ターン2、ターン3……」
コーナーごとに行なう無線チェックの声も、9月までヨーロッパで戦っていた松下だけに「1コーナー、2コーナー」ではなく本場ヨーロッパ式だ。
土屋「車重1400kgは重いだろ?」
松下「イメージしていたより全然軽く動くんでビックリしました。もっと鈍いのかと思っていました。想像していたよりロールもしないし硬い感じがした。バランスは今は少し自分でアンダーにしているところもあるけど、バランスのフィーリングは悪くないと思う」
赤旗を挟んで8周の連続走行を終えて難なくルーキーテストをこなすと、時間を惜しむようにエンジニアに指示を出す。
松下「予想よりピックアップのダメージが大きいから気をつける。今のうちにデータで都史樹とのメインの違いを見ておいて。ブレーキもちょっとオーバーラップしちゃってる気がする」
松下は気負うことなく、年下とは言えこのマシンの経験では優る大湯都史樹に教えを請うべきところは尋ね、限られた時間の中で精一杯NSX GT3のことを学んでいった。 57kgものウェイトを積んだマシンをドライブし、予選はQ1で大湯が6番手のタイムを記録し、Q2では松下が初めての本格的なアタックで12番手のタイムを刻んだ。
決勝は大湯がスタートドライバーを務める。大湯にとってもこれが初めての経験だ。それでもアグレッシブなドラビングが持ち味の大湯らしく、1周目でポジションを2つ上げてきた。
土屋「大湯はタイヤの温め方が上手いな」
大湯「あんまりタイヤを保たせてる余裕はない!」
岡島「了解、タイヤ交換できる準備をしておく」
55号車はタイヤ交換を最小限に抑え、ピットロスを小さくしてポジションアップを狙う。そのためには第1スティントからなるべくタイヤを傷めないように走らなければならない。
岡島「リア2輪交換でいきたいから、フロントタイヤはケアして走ってね」
大湯「了解」
それでも大湯は果敢な走りでポジションを上げていく。4周目までに7位、9周目に6位、19周目には5位まで浮上してみせた。
大湯「1人で走ったら全然ペースが良いのに、付いて走るとダウンフォースが抜ける!」
岡島「了解。ストレートスピードはこっちの方が速いから、ヘアピンの脱出で上手く立ち上がろう」
大湯「ブレーキのフェードがちょっと気になりそうなので、今から少しクールダウンします。あと思ったよりリアは減らない。どっちかというとフロントの方がキツい」
岡島「了解」
当初はリア2輪交換を想定していたが、タイヤのフィーリングを大湯から受けて岡島は左2輪交換に切り替えることにした。左右で異なるタイヤを履くというのはGT未経験の松下にとっては初めてのことで、さらに難しいデビュー戦になる。それでも松下になら任せられるだろうというのがARTAの判断だった。
GT300のマシンがコース脇に止まり、セーフティカー導入の可能性が高いと見た大湯は8号車と同じようにピットインを訴える。
大湯「ここでピット入った方が良いかも! なんか止まってるよ! ここでピットインしたい!」
岡島「ダメダメ、まだ燃料がミニマムに来てない。燃料が足りない」
大湯「入るよ!」
岡島「入っちゃダメ、ストレート行って!」
ここでピットインすると残り周回数からいって燃費が問題になる。さらにはピットも混雑しており、優勝がかかった8号車のピットストップも考えなければならない。岡島はそう判断して大湯をステイアウトさせた。
岡島「まだまだ入ってないクルマが結構多いから、まだまだチャンスはあるよ。SC明けでそのままピットインしよう。左2輪交換で行くからね」
大湯「了解。フロントにピックアップが付きやすいので気をつけてって松下さんに言っておいて」
結局、55号車はセーフティカー導入からリスタート後のピットインとなり、4番手から9番手へとポジションを下げて松下にレース後半の約2/3を託すことになった。
松下は相変わらず気負うことなくコースへと出て行き、とても初めての実戦とは思えない走りを見せた。
岡島「無線チェック、ノブ聞こえてる? 今ポジション9」
松下「オッケ〜。後ろはこれ俺とバトってるの?」
岡島「前も後ろも戦ってるよ」
無線のやりとりはなるべく抑え、松下は走りに集中する。いつもなら「後ろから何号車」とGT500クラスのマシンの接近を知らせるところだが、松下は「番号言われても知らないから、500、300だけでいい」と割り切って岡島に情報の無線を依頼した。
岡島「4秒後ろから360号車が1秒くらい速いペースで来ているからね」
松下「結構プッシュしてるけどペースが違うね」
岡島「了解。まだ先は長いからね、20周以上走らなきゃいけないから」
速いマシンが追いかけて来て一度は10位までポションを落としたものの、すぐにポジションを取り戻して8位までポジションを上げた。冷静沈着な走りに土屋も感心しきりだった。
岡島「良いよノブ、グッジョブだよ。前は11号車、ギャップは8秒。残り19周」
土屋「ノブはベテランみたいだなぁ」
レース終盤になって後方から再びペースに優るマシンが追い上げてきて、背後からプレッシャーを掛けてくる。
岡島「4秒後方から1周1秒速いGT-Rが来てるよ」
土屋「ノブ、残り4周! 頑張れ!」
これをなんとかかわして抑えていた松下だったが、最終ラップに堪えきれず先行を許してしまった。それでも左側2輪交換で左右のバランスが違うマシンを、大湯と遜色ないペースでゴールまで運んだ松下の腕はさすがだった。
土屋「お疲れさん! 最後抜かれちゃったか?」
松下「最後抜かれた〜」
岡島「とりあえずなんとかポイント圏内で終われた」
土屋「ノブの感覚ではクルマはどうだった?」
松下「ずっとフロントを使ってリアを守ってたんだけど最後はリアもキツくて、右側のタイヤはもう最初からズルズルだった。」
岡島「了解、次の富士に向けて改善できるようにセットアップを考えていくよ」
松下「レースもしてるんだけど、アベレージで0.3秒は上げられそう。ぶつかるかもしれないけど、もうちょっと(攻めて)行けば良かった」
岡島「BOPのパワーの差もあったからそこは難しかったと思う。初めてのレースで片側2輪交換だったのに良いペースで走れたと思うよ」
土屋「みんなお疲れさん、グッジョブ!」
9番手でフィニッシュして、前走車のペナルティにより8位。貴重なポイントを獲得し、首位に対して17点差でなんとかチャンピオン争いに踏みとどまって最終戦へと向かう。
チームの中心的存在であった高木の負傷という難局に直面しながらも、新人大湯がここまでの経験をもとに成長を証明し、スーパーサブがピンチを救った。岡島の咄嗟の判断でGT500クラスを戦う8号車の優勝も手助けし、8号車とともにタイトル挑戦権を得た。2019年の王者は、全く異なるかたちで成長を遂げて2年連続王座を目指す。
最終戦富士でARTAは最後まで諦めることなく頂点へと挑む。